ウルトラヴォックス ― ザ・ストーリー
ウォーレン・カン インタヴュー 聞き手:ヨナス・ワースタッド



ULTRAVOX - THE STORY
WARREN CANN INTERVIEWED BY JONAS WÅRSTAD

The copyright of this interview is owned by Warren Cann and Jonas Wårstad.
Copyright (c) 1998-11-14 Warren Cann and Jonas Wårstad.

The original interview in English
http://www.discog.info/ultravox-interview4.html

Translated by S.Y.


Part4


1979年1月1日 - ウルトラヴォックス、アイランドをクビになる

'Systems of Romance'のリリースに合わせて、僕達はツアーに出たんだ。僕達はこのアルバムは僕達の一番の作品だって思ってたし、観客の反応もそれを証明しているように思えたよ。僕達はイギリス全国とヨーロッパをツアーして何度もいいステージをやったんだ。ツアーがちょうど半ばを迎えた頃、僕達は次の4枚目のアルバムの事を考え始めたんだけど、驚いた事にアイランドは僕達を放り出す事に決めたんだよ。あれは確か79年の元旦だったね。もうおしまいだよだって。全くわけがわからなかった。僕達がチャートでNo.1を取れなかったっていう事以外、僕にはなぜそうなったかわからないよ。僕達のレコードは今だに売れつづけているみたいだし、当時成功は目前だったんだ。多分アイランドはもう僕達に飽きて、お金も労力も使いたくなかったんだろうね。
最初に契約した頃は、彼らは僕達の事をどういう風にしたいかわかっていなかったんだ。彼らに「君達が何をやろうとしてるかよくわからないけど、結構いいよね!」っていってもらった事には感謝してるけど。
僕達とアイランドの当初の「約束」は、当時のプレスのお陰で悪くなっていったんだ。特にプレスの描いた「パンク」という過激な妄想に僕達はフィットしていなかった。僕達はパンクを定義するためにも公平な役割を果たしたはずさ。
次に新しいバンドが出てくるまで、プレスは僕達に色々な「タグ」を貼り付けていたよ。
マネージメントをしっかりやっていなかった事も僕達の経歴を妨げる原因だった。でも僕達はバンドのメンバーだけでメジャーなレコード会社と契約を交わし、マネージャーなしで3枚のアルバムを作ったんだよ!すごいでしょ?
最初の頃は質の良いマネージメントを受けられる状態じゃなかったし、契約してからは神経質になって、色々言ってくる人には不信感を抱いていたんだ。
僕達は曲作りや録音、ライヴ活動で忙しくてマネージャーを見つけられなかったんだ。それに、正直僕達は自分達でマネージメントした方がいいって思ってたんだ。どう思うかは任せるけど、僕達もアイランドも、どちらも大胆で急進的で愚かで間違っていたんじゃないかな。僕達に関する事は最初の頃から多かれ少なかれアイランドのディレクター、リチャード・グリフィスが「管理」してたよ。利害関係なんかをね。


最初のアメリカ・ツアー

 イギリスでブレイク寸前に放り出された事で落ち込みうろたえていた間、僕達はアメリカの事を考えていた。どこか別の所で新たなスタートを切る事は、次のステップへの第一歩のように思えたんだ。結局僕達が次にとるべき行動はアメリカ・ツアーだって決まったんだ。僕達はすごく行きたかったし、僕達の音楽がどれだけ受け入れられているのか、そして事がうまくいけば新しいレーベルを見つけるきっかけがあるかもしれないという期待があったんだ。
アイランドの連中は、僕達がアメリカで成果を上げられるなんて思ってなかったし、ラジオでもかからないだろうって思ってたはずさ。(社員の)クリス・ブラックウェルがディスコものばかりかけるアメリカのラジオのテープをくれて、なぜ僕達の曲がかからないか説明したんだ。レーベルの援助なしでは誰も興味はもたないからツアーには賛成しない、という彼の意見に僕達は賛同できなかった。
僕達はマイルズ・コープランド (ポリスのスチュアート兄)と連絡を取って、アメリカでのクラブ・サーキットを最小限の予算で企画したんだ。(バンドの)スクィーズがレコード会社の多額の援助によるツアー援助代行なしにアメリカ・ツアーを終えたばかりだった。この型破りの功績が僕達をその気にさせたんだ。1979年において、この事は従来の音楽産業のルールや見識からするととんでもない事だったんだよ。アメリカをツアーするにはレコード会社からの資金援助が必須だったし、新作をプロモートしなきゃならなかったんだ。そうでなければ不可能だったんだけど、僕達にはどちらもなかったんだよ。

79年2月、僕達はレイカー航空の一番安いチケットで渡米したんだ、剥き出しの機材を超過荷物として持ち込んで。
照明やPA機材は一切持って行かなかった。そこまでするのはお金がかかりすぎて無理だったんだ。僕達は会場にあるものは何でも使って代用したよ。
僕のドラムセットの横には相変わらずTR-77があって、エフェクターを幾つか繋いでH&Hの100 wのギターアンプに繋がっていたよ。
僕達は文字通り自分達で交代でレンタカーを運転してクラブを回ったんだ。
車種はトラックか、アメリカでステーションワゴンと呼ばれる高そうな奴だったな。その時のセットリストは以下の通り。

Man Who Dies Every Day
Slipaway
Slow Motion
Hiroshima Mon Amour
Touch & Go, Artificial Life
Just For A Moment
He's A Liquid
Quiet Men
Radio Beach
I Can't Stay Long
Someone Else's Clothes
Blue Light
ROckwrock
My Sex

基本的に曲は'Systems~'の曲で構成して、残りは1stと2nd、そしてツアーに先立って作った, 'Touch & Go', 'He's A Liquid', そして 'Radio Beach' だった。
(変だな、'Radio Beach'って全然憶えてないなあ)

ツアーは東海岸から始まった。ニューヨークで演奏した時さ。僕がクラブ'ハラー'の前でタクシーを降りたらそこには警察がいて、現場検証の白い線が引いてあったんだ。今でもあの血痕を覚えてるよ。こういう事はニューヨークでは不思議ではないと言う事を考えて、もうこの事は気にしないでいたんだ。街全体を見るまではね。“この街は想像以上に暴力があふれている…”その後わかったんだけど、あの血痕はある芸術家が街中に書きまくった「作品」だったんだ。

何度かクラブ側が決めたサポートバンドが出たんだ。”ハラー”では僕達の大ファンだと公言した男がワンマンショーで前座をやったんだ。彼は包帯を巻きサングラスをかけ、透明人間のようだった。その男は'Nash The Slash'と呼ばれていたよ。中西部ではマイルズ・コープランドのつながりでポリスとも共演したんだ。東から西へツアーを続け、サンフランシスコでは'オールドワルドーフ'に出演、その後はロサンジェルス、オレンジカウンティでツアーは終了する予定だった。

ツアーの雰囲気は、経験していない人にとっても最悪だった。とても辛く、神経に障るものだったよ。僕達とジョン・フォックスとの関係は良くなる事はなく長い間その関係は変わる事はなかったんだけど、それもとうとう限界に達していたんだ。「もしかして」何かか起きるという事ではなく、「いつ」起きるか、という事は明白だった。そしてそれはサンフランシスコで起きたんだ。
僕達はライヴのあと大喧嘩して、ロンドンに戻る頃はみんなお互いどうするかわかっていたよ。ジョンは彼の道を、僕達は僕達の道を進むって事がね。ご想像の通り、残りのツアーの雰囲気は緊張していたね。


1979年4月 - ミッジ・ユーロ加入

 僕達はレーベルから放り出され、リードシンガーも探さなくてはならなかったけどそのためのお金も全然なかったんだ。でも僕達はここでふんばって自分達のためにバンドは存続させようって決めていたんだ。
すぐに進展があったんだよ。ロビン・サイモンにいつ戻るのか電話をしたら、彼はその後しばらくニューヨークに留まる事を決めたんだ。
ニューヨークの魅力は、彼にとってはロンドンに戻って僕達とバンドを続ける見通しよりも強くアピールしたようだったんだ。
僕はショックで彼にバンドに残るように説得したんだけど、彼の心は固く決まっていたんだ。ロビンが離れた事によって、その後の見通しは僕達にとって更に厳しくなったんだよ。

僕達にとって理想的な解決法は、ギタリスト兼リードシンガーを見つける事だって事がはっきりしてきたんだ。これはリードシンガーが楽器演奏者としても僕達と関われるという事が確保できる恩恵があった。
以前僕達はそういう事で不快な思いをしたからね。
僕達は「別の星から来たようなシンガー」の潮流は避けたかったんだ。
ビリーはリッチキッズのラスティ・イーガンと交流があって、彼の紹介でミッジ・ユーロを紹介してもらったんだ。彼らは何曲か曲を作っていて、それは後にヴィサージになったんだ。ラスティはミッジがウルトラヴォックスに合うと思って、ビリーにミッジを誘うように促したんだ。
その後ビリーは僕とクリスにミッジを紹介したんだ。音楽的な問題とは別に、僕の懸念は、ミッジはユーモアのセンスのないつまらない男なんじゃないかって事だった。彼にはユーモアのセンスを持っていてほしかったし、お酒も好きでいて欲しかったんだよ。でも僕の不安はパブで1,2時間過ごしてすぐに払拭されたんだ。彼が基準にあうかどうか、知っているジョークをいくつか試してみたんだよ。「Airfixの家具は買うかい?」とかね。彼にはウケたし人見知りもなかったから、この男なら大丈夫だって思ったんだ。

何度かリハーサルをしてみて、ラスティが正しかったっていう事がすぐに明白になったんだ。ミッジは一番のギタリストだったんだ。ウルトラヴォックスでも、他のバンドで僕が一緒に演奏した素晴らしいギタリストの中でもね。その点は彼の評価でよく見落とされるんだけどね。それに彼はちゃんと歌う事ができたんだ、けんか腰に叫ぶだけじゃなくてね。

無条件で新メンバーを見つける事が出来、そしてミッジは加入したんだ。僕達は一緒にやっていこうと決めて、少なくともこの時は申し分なかったね。
新バンドになって最もリフレッシュされた事の一つは、メンバー全員が作曲者として認められた事だった。もう誰が作者で誰がそうじゃないかって揉めなくて済むって確信したんだ。
この健康的で公正な機構の基にアイデアが次から次へと生まれ、そんな状況が続いていったよ。僕達は互いのパートについても意見を交換したんだ。
作詞作曲に関して発生するお金については、全て4等分する事になったんだ。
これはとてもわかりやすい方法だったけれど、バンド稼業ではなじみのないものだった。でもこれはいつの日か僕達が揉めても、それはお金の事じゃないって事を保証していたんだ。その後のバンドの活動がこれを証明しているよ。


1979年夏 - しばしソロ活動へ

 次の行動に移る前に僕達は自活しなければならなかったんだけど、これが幾つかの興味深いライヴをするきっかけになったんだ。
ビリーはゲイリー・ニューマンとライヴをやって、クリスはプリテンダースのギタリスト、ジェームズ・ハニーマン−スコットやエディ&ザ・ホットロッズのシンガー、バリー・マスターズと組んで何度かステージに立ったんだ。
一方ミッジはシン・リジィの脱退したギタリスト、ゲイリー・ムーアの代役を務めて彼らのアメリカ及び日本ツアーに同行、そして僕はザイン・グリフと組んだんだ。
ザインは才能溢れるシンガーで、彼のバンドはとても楽しかったよ。1979年8月24日にマーキー、8月26日にレディング・フェスでのライブが決まっていたから、その前にも何度かギグをやったんだ。
ザイン・グリフ・バンドを通じて僕はハンス・ジマーと知り合ったんだよ。彼はシンセサイザー担当だった。僕達は気が合ってすぐに友達になったよ。
結局僕は彼のプロジェクトの一つに関わって、バグルズが“トップ・オブ・ザ・ポップス”に出演して「ラジオスターの悲劇」を演奏した時にドラムスを叩いたんだ。
この時僕達ウルトラヴォックスの面子は、それぞれチャートインしているような有名なバンドに別々に参加していたんだ!

ここで僕がザインのバンドにいる時の、ライブ直前に起きた面白い話をしよう。

レディング・フェスの楽屋からステージに向かっている時、ハンスがあわてて僕の所に来たんだ。彼は完全にパニック状態で、僕は彼に何が起こったのか聞いたんだ。彼はあえぎながら「シンセがテープのデータを読み込まない、ロードできないんだ!」って言ったんだ。当時テクノロジーはまだ未熟だったから、シンセサイザーは電源を切ると、音色のセッティングも全て消えてしまったんだ。同じ音を出すにはカセットテープに音色データを記録して、次にシンセの電源を入れた時にそのデータを戻さなくちゃならなかったんだ。
ハンスはステージの裏でラジカセを使ってシンセやシーケンサーにデータを読み込ませようと必死だった。もしデータが読み込めなかったら彼のシンセは使えなかったし、バンドのセットリストの大半は演奏できない事になった。大変な状況だったんだ。せっかくの晴れ舞台が一転して大災害のように見えたよ。
僕はハンスの所に行って様子を見てみたんだ。彼はもう頭が真っ白になっていて、僕も同じようになりそうだったよ。僕は機材をざっと見て、それからこう言ったんだ。「ああ、原因がだいたいわかったよ。」僕は手を伸ばしてラジカセのスイッチを“ラジオ”から“テープ”に切り替えたんだ。そうするべきだったからね。ほんのちっぽけな事だったんだよ、色々あるうちのね。

その後僕達はザインのバンドではライブはやらなかったけど、彼のニューアルバムの製作は手伝ったんだ。ウルトラヴォックスはまだ再編成の途中で時間があったからね。
この頃僕達はバンドの適切な代表者の必要性を感じていて、マネージャーを探し始めていたんだ。
僕達はシン・リジィのマネジメント・チーム、クリス・モリスンとクリス・オドネルに話を持ちかけたんだ。彼らは、僕達がレコード会社の援助なしに、また新しいアルバムもなしにアメリカ・ツアーを自分達でやり遂げてそれなりに利益を上げたという事実に感心していたよ。
彼らは「じゃあここにサインして」っていう感じですぐに僕達をマネジメントするというわけではなく、更に様子を見て僕達をマネジメントするかどうか決めるようだった。僕達と彼らの関係が深くなるにつれて徐々に、彼らは僕達をしっかりとマネジメントしていったんだ。
その後しばらく経って、あれは確か少なくとも「ヴィエナ」がリリースされた後だったはずだけど、僕達はようやく合意を形式化する事に手をつけたんだよ。
僕達は成功を手にしつつあったんだけど、ようやくプロの管理を受ける体制を確立できたんだ。


1979年秋 - ニューアルバムが実現しはじめる

ミッジには過去に関与した仕事に関して続いていた法的な問題があったので、
僕達はそれが合理的に収まるまで曲作りやリハーサルをしていたんだ。
僕は世間にまだバンドは続いているんだって知らせたかったから不満だったけれど、理由は明白だったから彼の状況が解決するまで低姿勢を保つ方が賢い選択だって思ったんだ。特に金勘定が先の古いビジナスパートナーとの仕事は気をつけないといけないからね。

僕達はアルバム「ヴィエナ」に収める曲に手をつけていた。タイトル曲の’Vienna’はまだ出来ていなかったけどね。この頃僕達は'Astradyne', 'New Europeans', 'Mr. X'を作っていたよ。'Private Lives', 'Passing Strangers','All Stood Still'についてはちょっとよく思い出せないんだけどね。これらの曲はアメリカから戻ってから行なわれたその次のセッションかも知れない。
出来上がった曲は―僕達にとっては―僕達が興味を持ち、僕達が聞きたいと思っていたものの延長上にあったんだ。ミッジのヴォーカルはジョン・フォックスとは全然違っていたから曲のスタイルにも変化があったよ。そしてミッジは歴代で最高のギタリストでもあったんだ。僕達は自分自身を興奮させる音を追求し続けたんだ。バンド内の化学反応は違ったものになったけれど、それはクリスやビリー、そして僕自身が今まで以上に楽しむ事ができるものだったんだ。

最初の曲作りのセッションはとても楽しく成果も上がった一方、僕達がこの期間に行なったすべてが上手くいったとは限らなかった。

ミッジが持ってきて皆で何度か演奏したインストゥルメンタルがあったんだ。
演奏していてすごく楽しかった(そのリフは僕が大ファンのザ・グリッター・バンドを思わせた)。でもいくつかの理由でその曲は僕達には合わなくなって、結局製作する曲のリストから外されてしまったんだ。
後年ミッジはフィル・リノットと共にその曲を完成させ"Yellow Pearl"として発表したんだ。
この当時僕は作詞にも貢献して、'Sleepwalk", 'Mr. X", 'Private Lives', 'All Stood Still', 'New Europeans'の歌詞に採用されているんだ。僕はそれを常に試してみたかったし、ミッジが最初に持っていたプレッシャーを幾分取り除く事ができたと思うよ。ミッジが落ち着いてからは僕は歌詞は彼に任せたんだ。僕の歌詞はあまりよくなかったし、僕自身が思っていたほどではなかったからね。


1979年12月 - 二度目のアメリカ・ツアー

 初期の頃からバンドとして僕達には当時戦っていた多くの物事がたくさんあり、その事を考えると、もし機会があればイギリスの音楽プレスの色眼鏡に時期尚早に晒される事なく海外に出たいと考えていたんだ。
この思いから、僕達は一回目に行なった道筋を辿って二度目のアメリカツアーに出かけたんだ。最小限の機材、クラブでの演奏、完全に削減された経費。
アメリカに発つ前、僕達はイギリスで4回の“シークレット・ギグ”をやったんだ(11月にリバプールの'Eric's'から始まった)。
これはちょっとした肩ならしと、バンドがまだ存続している事を示すためであり、また新ラインナップで一度もライブをしないままアメリカに渡りたくなかったせいでもあったんだ。ノッッティンガムの'Boat House'とリバプールの'Eric's'でやった時の事を覚えてるよ。他の二つのヴェニューは忘れちゃったな。
曲は殆ど新曲で、'Slow Motion'などの古い曲も2、3曲やったよ。
二つの理由から僕達は昔の曲もセットリストに加えたんだよ。一つは現実的でもう一つは理に叶ったものだった。僕達にはまだ新曲が少なくて、1ステージをこなすには曲が足りなかったんだ。それに僕達は自分達の遺産を見捨てるつもりはなかったんだ。もちろん聴衆の中からはジョン・フォックスへの声援があったけれどミッジは旋風を巻き起こして僕達はエキサイティングな時間を過ごしたんだ。
アメリカ・ツアーで僕達はバンドとして固まり、素晴らしいスタートを切る事ができた。僕達は向こう見ずで、32日間に29回のギグをやったんだ。僕達はノンストップでカンサスのローレンスからニューオリンズまでマラソンしたんだ。会場に着くと僕達は車から這い出し体を洗ってからすぐにバーボン・ストリートに繰り出したんだよ。僕達は一連のギグをロサンジェルスの'Whisky A-Go-Go'で終えたんだ。公演延長の要請があったから僕達は結局そこで7回演奏して録音もしたんだよ。


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