ウルトラヴォックス ― ザ・ストーリー
ウォーレン・カン インタヴュー 聞き手:ヨナス・ワースタッド



ULTRAVOX - THE STORY
WARREN CANN INTERVIEWED BY JONAS WÅRSTAD

The copyright of this interview is owned by Warren Cann and Jonas Wårstad.
Copyright (c) 1998-11-14 Warren Cann and Jonas Wårstad.

The original interview in English
http://www.discog.info/ultravox-interview5.html


Translated by S.Y.


Part5


「ヴィエナ」レコーディングの過程

 二度目のアメリカツアーから戻って、僕達はレコードレーベルを探し始めたんだ。そのために僕達は1980年2月1日、ロンドンでのデビューギグを'Electric Ballroom'で一回限りで行なったんだ。それでクリサリスレコードが僕達に興味を持って、デモ製作のためにスタジオを用意してくれる事になったんだ。
コニー・プランクをエンジニアとして呼び、通常のデモを作る工程は行なわない事を決めてスタジオに入ったんだ。僕達は用意されたスタジオで一曲のみを作り込む事に集中して、出来上がったものを「マスター」としてレコード会社に渡したんだ。僕達は'Sleepwalk'を録音して、クリサリスは契約を申し出てきたんだよ。コニー・プランクをエンジニア/プロデューサー補として再び起用する事には皆合意していたんだ。僕達全員、’Systems~’で彼と一緒に経験した事はとても良かったって感じていたから、彼との関係は続けて行きたかったんだ。バンドの極初期から、僕達は録音技術を習得し続けてきたんだ。自分達のアイデアを捕らえる事に熟達するだけでなく、スタジオ技術を使ってそのアイデアを拡張し、スタジオそのものを創作過程の一つとして使ったんだ。
コニーは審美的な熱意と、僕達がこの作品を作り上げる為に必要な技術を併せ持った男だった。
僕達は作曲とリハーサルに戻り、'Passing Strangers', 'Western Promise', 'Vienna'を仕上げた。僕達の曲作りは至ってシンプルなものだったよ。
幾つかのアイデアを基にジャムセッションして、何かがはじけるまで色々な事を試したり辞めたりしたんだ。僕達はアイデアを練り、その曲を演奏して曲の構成を仕上げていったんだよ。その時点では曲はまだインストゥルメンタルだったから、僕達は通常曲の雰囲気に合わせて歌詞を作ったんだ。
殆どの場合、僕はカセットテープでこの過程を録音していたよ。曲を客観的に聞ける唯一の方法だったからさ。実際演奏している時には聞く事の出来ない何かを聞く事が出来るからね。曲を仕立て上げる際にはすごく役に立ったんだ。それと、僕達が考えたアイデアが「OK」だって確認できたから、それを基に新しい展開に進む事もできたんだよ。
そんなに驚く事じゃないけど、もしアイデアを出しながら3時間、4時間と演奏して可能性を探求していたら、疲れて感覚が鈍くなってしまうんだよ。次の日にリフレッシュしてそのテープを聞けば可能性をより正確に探る事ができるんだ。
クリサリスに聞かせるためにロンドンでコニーと一緒に思慮深くデモを作っていた一方、僕達はドイツにあるコニーのスタジオで製作したいという考えをずっと持っていたんだ。でも今となっては理由は不確かになってしまったけれど、僕達は実際に出来ているアルバム用の曲をロンドンのRAKスタジオで録音していたんだ(ここのオーナー、ミッキー・モストは一日一回カレーを作って僕達に振舞ったんだ)。そして全ての曲を10日間でミックスダウンしたんだ。
録音した曲はツアーで演奏した時よりも引き締まっていて、最新の曲は僕達がリハーサルで練ったアイデアが生かされていたんだ。

今ではシンセサイザーは幅広く使われているけれど、僕達の当時のアルバムではまだ実直にベース/ドラムス/ギター中心の録音が合理的に行なわれていたんだ。キーボードは直接ミキサーにつないだ音と、アンプに通した大きな音の両方を録音したよ。エフェクターは通常のテープエコーと、フランジャー、リバーブ、ディレイ、コーラスなどのデジタルエフェクトだった(当時のデジタルエフェクトは相対的にまだ初期的なものだった)。
僕達は「逆回転リバーブ」を使うのが好きだったんだ。リバーブは普通にかけるんだけど、テープのリールをひっくり返して逆回転状態で録音するんだ。
そうするとリバーブ音がその音源よりも先に出てくるのさ。僕達はギターやヴォーカルも逆回転させたよ。僕達はキッチンシンクに何でもかんでも放り込むように色々な音を放り込んでいったんだ。

タイガー・リリィの第一日目から、そしてジョン・フォックス時代を通じて僕はラドウィグのドラムスとジルジァンのシンバルを使っていたんだけど、僕の楽器の中で電子楽器はどんどん増えていったよ。僕はドラムマシンを鳴らす時に、時々フェイザー、フランジャー、ディストーション、エコーなどのギター用のエフェクトペダルをつなげていたんだ。例えば'Mr. X'の時とかね。
また僕は自分の生のドラムスの音にディストーションをかけて音を強靭にしたりもしたんだよ。ギター用のエフェクターを本来の用途だけのために使ったっていう事はあまりなかったね。
たいてい僕達は音源にはこういう事をやっていたよ。後でミキサーで付け加えるのではなく、直接エフェクトをかけたんだ。ドラムマシンにはイコライザーでかなり手が加えられたよ。多重録音には付加的なプロセスが多い。重ねられるそれぞれの要素がその次に重ねられる要素の形や属性を決める。だからそれをその時その場で「正しい」することは、「ミックスの時にエフェクトを決める」という事よりも結局はるかに楽な事なんだ。録音の時、音に何もエフェクトをかけない、もしくはエフェクトは別のトラックに分けて「ドライ」な状態で録る方が好きな人もいる一方、僕達はだいたいリバーブやディレイを後でいじくるのではなく、かけた状態で録音していたんだ。エフェクトのタイプがどんなに単純でも(「ああ、これは簡単だからいつでもできるよ、大丈夫!」)、
後で全く同じ事を再現する事はできないし、その変化から生まれたさざ波は他のすべてに影響するんだ。
ビリーは彼のアープ・シンセにエレクトロ・ハーモニクス社の'Electric Mistress'というディストーションと(多分)MXRのフランジャーを繋げていたよ。ピアノはスタジオにあったもので、ライブではヤマハのエレクトリック・ピアノだった。理由は、当時そのピアノは唯一本物の弦とハンマーアクションの鍵盤を使っていて、本物のピアノに最も近かったからだ。僕達の初期のレコードでずっと使ってきたビリーの'Elka'ストリングス・マシンに代わって、僕達はこのアルバムでストリングス・シンセ、ヤマハCS-20かCS-40を二台使ったと思う(一台ずつだったかな?)。一時CS-80もあったと思う。素晴らしいシンセだったけど、今日ではかなりレアで修理も難しく、かつ高いんだ。
ビリーはまた、彼のヴァイオリンにも多くのエフェクト・ペダルを使っていたよ。主にエレクトロ・ハーモニクスのものだった。彼はローランドの'Space-Echo'というテープエコー・ユニットも持っていた。彼のヴァイオリンには'Barcus-Berry'のピックアップ・マイクがブリッジ部分に付けられ、それを介してアンプで増幅されていたんだ。後に彼はワンタッチでレベル調整ができるエレクトリック・ヴァイオリンを手に入れているよ。

ミッジは最初はヤマハのSG-2000をVox のAC-30っていうアンプに繋いで使っていたんだ。クリスも、手軽だという事でヤマハのベースを使っていたね。
(彼のGibson EB-Oはもう何年も使われていなかった)
もちろん彼はミニモーグもベースパート用に使っていたよ。
基本的に僕達は、当時使えたもの、与えられたものは何でも使ったんだ。
僕達が使ったもので他にないものといえば、僕が設計してローディに作ってもらったシーケンス・マシンだった。これはドラムマシンからミニモーグに信号を送る為に使ったんだ。ドラムマシン自体もかなり改造していたよ。そう、これはMIDIなんていうぜいたくなものがない時代の話なんだ。
改造した機材には、今日のドラムマシンが持っているような機能を備えていたんだ(今のドラムマシンはもっとすごいけどね)。
僕はトリガーやクロックを送信してどんなシンセにも繋げるようにすぐに改造しなくちゃならなかったし、自然にそれが出来たんだよ。

僕は独学でミュージシャンになったし正式な教育は受けた事がないから、レコードを聞いて好きな曲をコピーする事を試したり、かっこいい音になる機材を使ってみたりしていたんだ。僕の好きなドラマーは、イギリスのロック/ポップスの黄金期に活躍した人達だ。チャーリー・ワッツ、リンゴ・スター、キース・ムーン、ジョン・ボーナム、ケニー・ジョーンズ…。
僕はいつもテクノロジーに魅了されてたよ。僕が音楽の世界に浸りはじめた頃からずっと興味を持っていたんだ。僕は従来のプレイヤーと同じようにスタートしたんだけれど、電子楽器の面白さに突如魅了されていったんだ。

どんな楽器や機材でもその強みや欠点による個性を持っているし、シンセサイザー関係では尚更そうなんだ。僕達の使った機材は、当時のテクノロジーが許す限りの多くの素晴らしい特徴があった。だけど僕を悩ませる欠点や奇癖もあったんだよ。そして皮肉な事に、その多くの欠点がサウンド全体の個性を作る事に貢献していたんだ。かなり前から僕はドラムマシンを、一つの機能に集中した優れたシンセサイザーとして見ていたんだ。
「ヴィエナ」を録音する前のある時、僕はローランドの最新のドラムマシン、悪名高い"CR-78"を手に入れる事になったんだ。ほぼ立方体のその寸法は、およそ12インチ×10インチ×10インチだった。またあのクルミ合板で出来てるし、前と同じ押しボタンがついていて、フォックストロットだのサンバだのタンゴといったプリセットリズムがあったんだ。テンポは回転式ノブになったけど動きが性急で、見ただけでテンポが変わっちゃう程だったね。音はまだまだアナログ的だった。それほど良くなったわけじゃないけど、根本的に新しい機能があったんだ。プラグを繋いで小さな丸いゴム製のパッドを叩くと、自作のリズムパターンを4つのメモリーに打ち込む事ができたんだ。やったね!
もし辛抱強い性格で指でかたかたと叩く音が嫌でない限り、打ち込んだリズムはクォンタイズや自動修正機能がなかったから揺れてしまうんだ。だからあまり期待を抱かない方がよかったんだよ。それから、ちょっとした衝撃で打ち込んだメモリーが消えてしまうっていう悪いクセもあったね。

一度、ハマースミス・オデオンでのコンサートの時、「ヴィエナ」製作中で曲数も増えた頃だったと思うんだけど、ビリーは盛り上がってヴァイオリンとCR-78だけでソロを弾きはじめたんだ。同時に6つの異なるリズムパターンを2倍、3倍のテンポで使ったんだ。僕は仰天して固まっちゃったよ。僕はただおどおどしながら見ているしかなかったね。他のメンバーも混乱しちゃったよ。ほんのわずかな時間だったけれど、永遠のように長く感じたんだ。でもその演奏は堂々と続いてちゃんと成立したんだ。
時々このように人の心は過熱状態になるんだ。僕は我に戻ってCR-78がちゃんと動くように原因を探したんだ。全ての付属品を確認してその場では手におえない事がわかると、僕はその状況でできる一つだけの事をやったんだ、結果を省みずにね。僕は思いっきりCR-78を叩いたんだ。とっても技術的だね。でも何もいい事は起こらなかったから僕はCR-78の電源を切ってドラムスを叩いてその曲を終わらせたんだ。TR-77やCR-78に関する創造的、技術的な欲求不満から、僕は改造する事を思いついたんだ。そして僕達の技術分野での「冒険」が始まったんだ。

運良く僕は、電気的な事に詳しくてガイドになってくれる人を知っていたんだ。
当時のエンジニアが技術的な事に精通していたんだけど、実際の創造的な適用の段階で彼はいなくなってしまったんだ。
僕達は一番の弱点であるテンポ・コントロールから始めたんだ。ノブの動きを鈍くすればいい事がわかったよ。もう一つの電位差計は(正確なテンポを調整する)ファイン・チューン回路へ配線された。元のテンポ・コントロールでおおまかなテンポを決めて、ファイン・チューンで細かい調整が出来るんだ。
でもまたあの(ハマースミス・オデオンの)ライブのような状態ではいられないから、リズムが早くなったり遅くなったりする事なく、冷静な状態で曲を始められるようにする必要があったんだ。
僕達はLED表示のできる安いメーカーの多重メーターをテンポの回路に接続して、DC電源のボルト数を測定できるようにしたんだ。僕はリハーサルの間それぞれの曲のテンポを取って、その速さでCR-78を動かして表示される数値を測って数字をノートに書いておいたよ。BPM(一分間の拍数)に関する限りこれは全く任意の数字だったけれど、重要な事は、同じテンポで再現する事が可能になった事なんだ。
例えばリハーサルで"Mr. X"を演奏した時表示された数字が11.42ボルトだったら、ライブ会場でもメーターを11.42ボルトにすれば、曲は全く同じ速さでは始まるんだ。
僕はメーターをドラムマシンの上にテープで止めていたんだ。全然エレガントな方法じゃなかったけど、それでもうまくいったんだよ。
ドラムマシンの回路の基盤を見た後で、僕は音を作り出すアナログ回路は小さなセラミックを調整した電位差計がある事を発見したんだ(このドラムマシンにはメモリーの中には何もサンプル音は入っていなかった)。
それが実際どういうものか僕にはわからなかったけれど、それをぐいっとひねると音が変わってすごく良かったんだ。
例えばバスドラムは、ギターアンプの低増幅入力やスタジオのモニターに通した時のように適度に変わったんだけど、ライブの時、膨大なPA機器を通じて数千ワットも増幅された時は、巨大なビーチボールがボーン!と転がるような音がしたよ。僕はバスドラムとスネアドラムの音を強固にする事ができたんだ
(それまでは元々の「柔らかい」音で色々な方法を見つけようとしていたんだ)。

僕が協力を仰いだ人達の中に、ローランドのロンドン支社で修理を担当していた技術者がいたんだ。彼は僕のドラムマシンの使い方に好奇心をそそられ、支援を惜しまなかったんだ。こわれたエレクトリック・ピアノを直すよりも全然面白かったからね。
この事はあまりよくは思われなかったようで、ローランドの経営者、フレッド・マンドは彼にもうこれ以上僕と何かする事を禁止したんだ。僕は彼らの時間を無駄にしちゃったんだよ。実際僕の機材が壊れていなかったら、僕は好ましくない人間だよね。
改造したらそれは彼ら(楽器メーカー)の保証外に分類されるから、彼らの問題では全くないよっていう事だね。でも僕達はローランドのCR-78を使ってアルバム「ヴィエナ」を作って大ヒットしたわけだから、彼らは近視眼的な判断だったって事さ。
僕はすぐにピート・ウッドという電気技師を見つけて、僕のアイデアを実験したり修正する作業を続けたんだ。
ある意外な発見が面白い解決法を導き出したんだ。
ギグの後で何人かが僕の所に来て、一体君はドラムマシンが動いている何曲かの間何をしているの?って尋ねてきたんだ。彼らから見ると、僕はドラムスを叩く事をやめて左側を向いて、見たところ何もしていないように見えるようなんだ。ある人は僕が本を読んでいるんじゃないかって聞いたんだよ!
僕は驚いたけど、あの頃人々は音と僕がやっている事をすぐに直結させる必要はなかったんだね。これはよくない事だから、僕はちょっとショーマンシップを発揮する事にしたんだ。
僕はTR-77とCR-78の木製の筐体を取り外してアクリルのケースに入れ替え、様々な色の発行ダイオードを内部に取り付けたんだ。そうすると選択されたリズムにあわせて光り輝くんだ。全然役にたたないけど、暗くなったステージ上ではとても印象的だったね。これで僕がステージで何をやっていたかがはっきりしたと思うよ。ドラムマシンについての質問の答えとして、それはとても効果的だったんだ。

僕達を魅了するミニモーグの性能の一つは、安定した八分音符の流れを汲み出す能力なんだ。違う高さの鍵盤を弾いても、機械的で波打たないベースラインが生み出されるんだ。ドラムマシン同様、この硬くソリッドなテンポは催眠術のような魅惑的な要素があるんだ。'Sleepwalk', 'New Europeans', 'All Stood Still'のベースはミニモーグなんだよ。ドラムマシンと同期させる事ができなかったから、当分の間僕はこれらの曲でドラムスを叩かなくちゃならなかったけど、でも大丈夫。僕達はその音に魅了されていたからね。
僕達はLEDメーターでテンポを読むアイデアをクリスのミニモーグにも適応させたから、彼はテンポについて予測できる操作を行なう事ができたんだ。
結局僕達はドラムマシンとモーグを接続する方法を見つけたから、打込みのベースラインとドラムマシンを同期させる事ができたんだ。
僕がドラムマシンを止めてドラムスを叩いていても、僕達は正確なテンポでベースラインから曲を始める事もできたんだよ。
例えば"All Stood Still"…この方法でクリスは曲の始まりで正確なテンポを探る面倒から開放されたんだよ。
クリスが部分的に鍵盤を弾く他にも、八分音符の一定の流れを保つ方法がいくつかあったんだ。僕はベースラインの一部が発音しないようにするために単純な構造のシーケンサーを考案したんだ。トグルスイッチがズラっと並んでいて、あらかじめ決められたフレーズを作る事が出来たんだ。例えばオン/オン/オン/オフ/オン/オン/オフ/オン、っていう感じでね。この方法で'Rage In Eden'のようなベースラインを作れるようになったんだ。簡単な作りの機械だったけれど、でも使えたんだよ。
これに先立って、僕はデイヴ・シモンズの極初期の製品を手に入れていたんだ。「クラップ・トラップ」っていう名前だったよ。僕はデイヴのレコードショップだかどこかで彼に会って新しい装置を手にした時の事を覚えているよ。
それは小さな黒い箱で、ハンドクラップの音を出す事が出来たんだ。そしてそれにマイクを接続して何か音源、例えばスネアドラムの音が入るとハンドクラップが発音したんだ。またフットスイッチでも音を鳴らす事ができたんだよ。
'threshold' と 'gate'は外部からの入力を調整するツマミで、'pitch'と'thickness'で音色を替える事が出来たんだ。僕は主にフットスイッチを使ってリズム演奏に新しい要素を加える事ができたんだ。そしてドラムマシンと同期させる事も結構簡単だったから、この方法を'Passionate Reply'で使ったんだ。
一度ボストンに行った時、機材の調子が悪くなったのでシンセサイザーの専門家に詳しく見てもらう事になり、僕達はモーグの技術者の所へ持ち込んだんだ。
彼は「こりゃ一体何なんだ!?」って驚いてたよ。僕はシモンズの次の製品、SDS-IIIも使っていたんだ。それは4つのドラムパッドを接続する事が出来て、
「エレクトロニックな」ドラムサウンドを作る事ができたんだ。
まだまだアナログなマシンだったけれど、上手く使えば強烈なノイズを出す事ができたよ。この音は'All Stood Still'のイントロで使っているよ。

僕達は当時の技術の限界をさらに押し進めていたんだ。予算も貰わずにアルバイトしてたんだね(その後貰う事になるんだけど)。僕達は技術的に無難なありふれた機材を使って自分達、そして聴衆が今イチと感じるような音で演奏するよりも、実際に自分達が作った機材でライヴをやろうとしていたんだ。
最大の欠点は、当然なんだけど、スタジオ機器の信頼性の安全な境界の範囲外にあったっていう事なんだ。僕達は危険を伴ってそれらをステージで使っていたんだよ。
僕達はそれぞれの機材を互いに接続していたから、ステージ上はワイヤーで一杯だったよ。居心地の良いスタジオでもあまり安定しない気まぐれな機材から、不意に会場の主電源を落として機材の設定をごちゃごちゃにするような無知なPAエンジニアへ、そして正確にデータを送らないカセットテープレコーダーや僕達の機材で何をやるか知らないスタッフに繋ぐために…、あああああー!

お陰で僕達はしばらくの間ステージ上で全然楽しくなかったしユーモアも感じる事はできなかったよ。機材を正常に保つ事に集中している間、不測の事態がいつ起こるかっていつも心配していたよ。
その後もこの事はそれほど改善されなかったね。僕達は以前よりも信じられないほど高価で、更に複雑な操作で顔をしかめてしまうような機材を手に入れたんだ。バンドの終わりの頃になってようやく安定した操作ができるようになったんだよ。
こんな感じだから、僕達がライブエイドで4曲演奏したうちの3曲は同期が必要で、「お願いだから何も壊さないで!」って思っていた事を覚えてるよ。
アルバム「ヴィエナ」の録音は僕達がそれまでに学んだ全てを反映させる事ができたんだ。コニー(・プランク)のスタジオでのミキシング作業は2週間ほどだったけれど、とてもいい雰囲気で全てがスムースに進んでいったんだ。


1980年6月6日 - Three Into One

 もちろんクリサリスと契約した後だったから、アイランドが僕達の昔の曲を使ってそれを現金化しようとした事にはちっとも驚かなかったよ。僕達はアイランドから見捨てられて不当に扱われていたんだ(その後アイランドの出版部門と示談して解決したんだけどね)。このコンピレーション・アルバムのリリースが差し迫っているという話を聞いて僕達は報復の方法を思いついたんだ。
クリスと僕は以前からよくアイランドのデザイン部門に顔を出していたから、今回の担当デザイナーと話をしたんだ。
ジャケットの扱いに興味がある事を装って、僕達は彼のセンスの悪いアイデアを進めさせたんだ。彼のアイデアは「僕の彼女に何かのコスチュームを着させて何台かの車のヘッドライトで照らす」というものだったよ。僕達はこう言ったさ。「すごいよ!それだね!」(Ha! Ha! Ha!)
うまくいったかって?ジャケットを見ればわかる事さ。


1980年6月16日 - クリサリスからの最初のシングル:Sleepwalk

 ('Sleepwalk'自体については後ほど)
B面は'Waiting'という曲だった。どこで録音したかは覚えてないけれど、とにかくRAKスタジオでのセッションではなかったと思う。アルバムに入れる候補ではなかったのはわかっていたけれど、B面の曲としてよく出来たと思うよ。


1980年7月11日 - アルバム”Vienna”リリース

Astradyne - 曲の冒頭で聞こえるカチカチという音はCR-78の'Metal Beat'という名前の音なんだ。僕はその音を曲の最後までずっと鳴らしていたんだ。
僕達は常にインストゥルメンタルを作ろうとしていたけれど、不可解にも後々徐々にそうしなくなっていったんだ。
曲名はラテン語の組み合わせで、イギリス空軍のモットー'Per Adua Ad Astra'(逆境を抜け星へ向かえ)と、僕が前から名前がかっこいいと思った航空会社Rocketdyneを組み合わせたものなんだ。

New Europeans - これは曲や歌詞が出来る前に曲名があった唯一の例だったと思う。僕達はいつも曲を作ってからそれにあわせて歌詞を書いていたからね。
この曲は日本のウィスキーのテレビコマーシャルで使われて、日本で僕達の知名度を上げる触媒になったんだ。日本の広告では使用された音楽が画面の隅にクレジットされるんだよ。いい事だよね。そこで人々に生じた興味からこの曲はシングルカットされてゴールドディスクになったんだからね。
レコード会社で行なわれた僕達の授与式はとてもフォーマルなものだったよ。僕達は控え室に通されてレーベルの社長から出席者に紹介されたんだ。彼は年齢も高く威厳のある人だった。でも今にも倒れそうなくらいの老人だったし、僕達が誰なのかわかっていなかったみたいだったけどね。
嬉しい事に、レコード会社はそれ(ゴールドディスク)を真剣に受け止めたようだし思い出深い瞬間だったよ。

Private Lives - 僕が最初につけたタイトルは、'Hollywoodammer・g'…、まあ完璧な人なんていないからね。すぐにPrivate Livesに変えたよ。

Passing Strangers - この曲の録音はとてもスムーズだったけど、僕はこの時のセッションの事は全然覚えていないんだ。僕達は'Vienna'を第二弾シングルとして出したかったんだけど、よく話し合って(もう嫌だけど)こっちを選んだんだ。
だからこの曲が次のシングルになって最初のビデオクリップもこの曲になったんだ。監督はラッセル・マルカヒーで、僕達はその全プロセスを魅惑的に感じたんだ。他の全ての事―ポスター用のアートワーク、パッケージ、販促活動―よりも多くの事を学ぶ事ができたんだよ。僕達はすぐにビデオに興味を持って、自分達でもビデオ製作についてもっと知らなければならないという事に気付いたんだ。次のビデオでもっといいものを作るためにね。

Sleepwalk - 'Sleepwalk'は僕達のクリサリスでの第一歩であり、ミッジと組んで作った最初の曲だった。コニー・プランクがエンジニアとして参加し、この曲に三日間ほど費やしたんだ。通常の3曲程度のデモを録音するよりも、「かまうもんか」と思って僕達は一曲だけ「完成された曲」を作るためにスタジオを使う事を選択したんだ。賭けは成功して、僕達とレーベルの取引は成立したんだ。その後、録音が終わってコニーのスタジオにテープを持ってミックスに行った時、僕達は他の曲で達成したクオリティと統合させるために、この曲をもう一度最初からミックスし直す事にしたんだ。オリジナル・ヴァージョンとリリースされたヴァージョンは事実上違いはないんだけど、リリースされた方がちょっと落ち着いているみたい(7インチ・シングルとアルバムは同じバージョン)。僕の個人的な意見だけど、僕が作詞した曲が最初のシングルになった事は誇らしく思うよ。この曲はビデオは作らなかったな。クリサリスにとっては時期尚早だったんだね。

Mr. X - 「これは誰の事を歌っているの?」と聞かれるんだけど、別にジョン・フォックスでもボウイでも、その他候補に上がった誰でもないんだ。一度イギリスのラジオでこの曲の起源を話した事があったと思う。それ以来この事は黙っていたんだけどね。時が経つにつれこの事を隠す事が更に楽しくなったよ。
聞かれた時は率直に答えたけど、でもあの歌詞は曲のポイントとして判読されるようなたぐいのものじゃないんだよ。時々僕はジョン・フォックス期の曲, 'He's A Liquid'や'Touch & Go'の経緯について質問されるんだけど、それらの曲と
Mr. Xが関係あるのかといえば、答えはNO、全く無関係さ。僕個人は類似性は
全然感じないけど、でもそれは僕だけみたいだね。もちろんこれらの曲を全てアレンジして演奏した事があるっていう背景が僕にはあるけどね。僕達は1979年の最初のアメリカ・ツアーで'He's A Liquid'と同じ位'Touch & Go'を演奏したけど、レコーディングは全くしなかった。そしてその後バンドは分裂したんだ。'He's A Liquid'や'Touch & Go'に僕達が関与したというクレジットは'Metamatic'の中には見る事ができないよ。当時(ジョン・フォックス期)、僕達がこのどちらかの曲をレコーディングする事を考えたか?―答えは断然NOだよ。あの2曲はバンドの事実上の最後を過ぎてから僕達が関わった本っ当に最後のものだったんだ。作曲者のクレジットで論争するような状況にならなくて本当に良かったし、それに比べればはるかにハッピーな関係でいられたよ。

Western Promise - 僕達はこの曲のドラムスを、ガラスで囲まれ磨いた大理石の床でできたスタジオの受付スペースで録音したんだ。「硬質な」ドラム・サウンドにはもってこいだったよ。だからスタッフを混乱させないように夜中にマイクを持ち出してレコーディングしなくちゃならなかったんだ。唯一の欠点はスタジオの正面のドアが全然防音されていなくてセント・ジョン・ウッドの閑静な住宅街にドラムスの音が鳴り響いた事なんだ。近隣の人々は警察を呼び、彼らは到着すると僕達に辞めるように言ったんだ。でもすごくいい音だったから僕達はあきらめずに次の晩にも試してみたんだ。僕達は全てを準備してすぐにでも演奏できる状態にしたんだ。警察が来る前に「良い」テイクを録らなきゃならない事はわかっていたから失敗は許されなかった…。人々が気付いて通報して奴らが来るまでの間、僕はいい演奏ができて僕達は欲しいものを手に入れたのさ。
この曲のように打ち込んだシーケンス・パターンをずっと鳴らして録音する曲は、自分の背中に棒を入れるようなもので後に様々な問題を生んでいったんだ。このパターンはベースラインのように常に曲中に鳴っているわけではなく、ライブでは聞こえない時があった。簡単に他の楽器に圧倒さてれ、一瞬でも聞こえなくなると正確なタイミングがわからなくなり、どうやって元に戻ればいいかわからなくなるんだ。だからライブの時は別にモニターシステムを付け加える必要があったんだ。

Vienna - この曲はとても素早く出来たんだ。僕は自分自身に代わってずっと使いたかったドラムマシンとシンセ・パッド(CR-78 と 'Synare' pads)を用いたリズムパターンのアイデアがあって、「こんなのはどうだい?」って言って'Vienna'のあのリズムをスタートさせたんだ。僕達はそれに合わせて演奏を始めて、以前うまくいったアイデアをサビの部分で使おうっていうアイデアが浮かんだんだ。でもヴァースの部分は特にアイデアが出なかったから次の日に仕上げたんだ。中間のソロ部分の手腕は以前スタジオで仕上がっていたからそのまま使ったよ。一度うまくいった事がその後も通用したってわけさ。

この曲がアルバムのクライマックスだって事がわかったから、僕達はこれをタイトルトラックにしたんだ。
この曲は僕達がやろうとしていた事を最もよく現している曲なんだ。僕達はこの曲を3番目のシングルに決めていたから、その事についてクリサリスと意見を異にする事になったんだ。常識的に、彼らは6分もある曲はシングルには長すぎる、トップ30に入る曲としてはおかしいし曲調も暗くて遅いって思ったんだ。曲自体は気にいっていたのにね。ビリーだけは彼らの言い分に納得していたよ。アルバムの中の曲としては素晴らしいと思う一方、彼は'Vienna'をシングル曲として捉える事が出来なかったんだ。
この事が、その後数年に渡ってバンドに訪れる大きな楽しみの元になったんだ。
僕達はレコードに歌詞カードをつける事が好きじゃなかったんだ。その方が聞いた時にもっと楽しんでもらえるって思っていたからね。でも英語を話さない地域のレーベルは歌詞カードをよくつけていたし、その事に僕達は反対しなかったんだ。でも日本盤の「ヴィエナ」についていた歌詞カードを読んだ時、僕達はヒステリー状態になったよ。どこかの誰かが明らかに無理やり歌詞を転載していたんだ。Vienna'の歌詞がテイクアウトの食べ物を買いに行く事を歌っていないように、彼らの母国語は英語じゃあないって事なんだろうね。

All Stood Still - この曲はミニモーグがなかったら作っていなかっただろうという良い例だね。まあきっと作ってはいただろうけど、ミニモーグなしでは僕達がレコーディングしたようにはなっていなかっただろうね。あのベースラインをベースギターで弾いたら頭痛がするだろうね。All Stood Stillのような曲はライブで演奏する時に面白い様相をもたらすんだ。バンドの「タイムキーパー」として、演奏中曲を維持するためにテンポを確認するのはいつも僕の役目だった。シンセに合わせて演奏すれば、テンポはいつもほぼ一定に保てるという恩恵があったんだけど、話はそう単純ではないんだ。曲のテンポは練習スタジオに入って色々な速さから客観的に見て理想的なものが決まるんだ。でもステージで熱狂的な人々の前に立つと、それはまた別なんだ。奴らのエネルギーはすごいんだよ。気が高ぶってステージに上がって、あらかじめ決められて後から変えられないテンポの曲に着手すると「ああああああっ!おっそーい!」って事になっちゃうんだ。

レコーディングした曲をライブの時テンポを早くして演奏するという現象は、コンサートに来た人には誰にも明白だった。それがいいとか悪いっていう話ではなくって、観客の盛り上がりや、その日演奏する曲がどう感じるかといった事について、バンドが折り合いをつけなければならなくなる時があるっていう事さ。元の曲よりもかなり早いテンポで演奏すると、得るものがあるけれど、それ以上に失うものもあるしね。僕達はその方法に慣れて適合していった。
丁度パイロットが彼自身の感覚を自覚して自分の飛行機に信頼をもてるようになるようにね。
幾つかの実験の後、僕達はライブの特殊な雰囲気に屈する事なく次第にその合理的に決められたテンポが快適になっていったんだ。
僕達は自信を持ち始めて、ライブ中はこの方法をよく使ったんだ。曲順についても注意深く考えていたからステージは順調に進んだんだ。

'Vienna'のセッションからは未発表曲は一つもないんだ。僕達は収録する曲をよく練ってからセッションに臨んだし、だからこそあのアルバムが出来たんだ。
'Systems'の時と同じ位満足できたし、多くの部分ではより満足できるものだったよ。そこにたどり着くために色々な事を通り抜けてきたからね。


1980年10月15日 - 'Passing Strangers'リリース

 クリサリス・レーベルに在籍していた間、どの曲をシングルとしてリリースするかという選択は殆どの場合僕達だけで決めていたんだ。'Passing Strangers'の一件があった後、僕達は自分達の決定に関して断固とした態度をらなきゃっていう経験をしていたからね。クリサリスもそれには合意していたんだ(時々強く意見を出してきたけどね)。僕達の方がどの曲がいいかよく分かっていたし、殆どの部分で自分達の決断は正しかったって思うよ。
7インチ盤のB面はライブ録音の'Face to Face'っていう曲なんだ。この曲はスタジオでは録音されなかった。予定はあったんだけど実現しなかったんだ。
ビリーは何曲かでギターを弾きたがっていたんだけど、どの曲がいいかわからなかったんだ。でも僕達は彼を落胆させたくなかった。彼はパールホワイトのヤマハSG-100を持っていて、彼はこの曲で初めてギターを披露したんだ。
この曲が僕達の方向性に合わなくなってきた後(それはビリーのせいではないけれど)、'Face to Face'はセットリストから消えていったんだ。僕はあのギターは結構好きだったけれど、その試みがうまくいかなかった事は数年後ミッドランドでわかったんだ。僕にとっては納得できる結末だったよ。
12インチにはもう一曲(イーノの)'Kings Lead Hat'が収録されていて、これもスタジオ録音はされなかったね。僕達は他のアーティストのカバー曲はやらない方針だったけれど、当時はアンコールでカバーをやる事が楽しみの一つだったんだ。イギリス国内のライブでは何回か、アンコールでゲイリー・グリッターの'Rock & Roll'を即興で演奏したんだよ。録音してあったらリリースしたかったね!


1981年1月15日 - シングル’Vienna’リリース

Vienna video - 初めてのビデオ'Passing Strangers'の洗礼を受けて、僕達はビデオ制作に関してより多くの責任を負うようになったんだ。もっとたくさんのアイデアがあったし、最初に編集されたビデオももちろん再編集したさ。多くの事を素早く学んだんだ。自分達が見たいものが何だかわかっていたし、どうやればいいかもわかっていた。
クリサリスは最初’Vienna’のシングルカットには乗り気ではなかったんだ。
「シングルは普通3分20秒とかで、この曲は長すぎる」、「テンポが遅すぎる」、「変な曲だ」などといった古い考えからだった。僕達は話を掘り下げてリリースするために押しまくり自分達の意志を貫いたんだ。
僕達は最初からこの曲のビデオを作りたかった。でもクリサリスは邪魔をして資金を出そうとはしなかったんだ。ビデオに出資するなら君達には金は払わないって言った事も覚えているよ。だから僕達は「あいつらも道連れだ。自分達で作るしかない。」って思ったんだよ。
僕達はそう決めて自分達でお金を出したんだ。驚くかもしれないけど、ビデオのほぼ半分はロンドンの中心部で撮影したんだ。多くはコベント・ガーデンであとは北部にある旧キルバーン・ガーモント劇場も使ったんだ(残念ながら現在ここはギャンブル場になってるけどね)。
大使館のパーティのシーンはレンタルした街中の家で撮ったんだ。どの辺だったかは思い出せないけど、撮影の為にクルーが長時間ライトを設置していたから僕達出演者は皆待たされてイライラしていたんだ。それで撮影後に飲もうとしていたワインを皆で飲んでしまったんだ。だからクルーが撮影の準備を終えた時、僕達は皆本物のパーティ状態だったんだ。

残りの半分は実際ヴィエナに行って撮影したよ。撮影は質素で、僕達以外は信頼しているカメラマンのニックだけだった。早朝のフライトでヴィエナに飛び、
いかれたように走り回って撮影してはタクシーから出たり入ったりしていたんだ。でもその時は冬でオフシーズンだったから、僕達が撮影しようとしていた殆どの壮麗な場所は改装のために閉まっていたり、足場を組むために幕がかけられたりしていたんだ。「“修復の為閉鎖中“ってどういう事だ?」って感じさ。
ある墓地では銅像を撮影した。この銅像の写真はシングルのジャケットに使われたものでモデルの人物は当時裕福な人や有名人のピアノを作った人らしいんだ。その後夕暮れのシーンを撮影し、編集のためにそのまま大急ぎでロンドンに戻っていったんだ。
一週間くらい後、シングルのリリースに先立ってレコード会社からビデオがどうなっているか電話がかかってきたんだ。リリースされて週を追う毎に曲がチャートを駆け上がっていくと、彼らはとても熱狂していったんだ。
しまいには彼らは僕達をまくし立てて、ビデオを'Top Of The Pops'の放送に間に合うようにさせたんだ。彼らは確信を持って頼んできたんだ。もうわかっていると思うけど、最初彼らは無関心で否定的だったから僕達はそれを聞いてとても満足したんだ。それに彼らは喜んで制作費も出してくれたんだ。幾らくらいか興味あるでしょ?6000から7000ポンド(120~130万円)くらいの範囲だったよ。ごめん、実際はそんなにはかかっていないんだけど、当時ビデオ業界は貪欲だったからね。

Vienna single - 'Vienna'はシングルチャートに14週間留まったんだ。その頃はジョン・レノンの死の直後で彼の曲が再リリースされてチャートの一位に留まっていたから、僕が覚えているよりも長い間'Vienna'は二位だった事になるね。信じられないほど不満だったよ。その後僕達はレコード業界の人間から、レノンの曲がついにチャートを落としたって聞いたんだ。「ついにチャンスが来た!」って僕達は思ったよ。そしてどこからともなくジョー・ドルクの野郎のヒット曲が現れたんだ…。
一ヵ月後、僕達はオーストラリアのツアー中に'Vienna'が全英年間最優秀シングルに選ばれたって聞いたんだ。それを聞いてすごく誇らしく思ったし、チャートで一位を取ってやろうっていう前向きな気持ちにさせてくれたんだ。

Passionate Reply - 7インチ盤のB面’Passionate Reply’は見込みのある曲だったけど、仕上げるまでに曲の中に何か「生きているもの」を込める必要があったんだ。こうしてとてもいいBサイド・ソングが出来たんだ。この曲はアメリカ・ツアーの間に出来たんだ。フロリダにいた時B面用にもう一曲必要だと言われたから、僕達はマイアミのスタジオ'Criterion'を借りたんだ。スタジオの壁一面に、ビージーズがそこて録音したディスコヒットのゴールドディスクが飾ってあったのを覚えているよ。エンジニアもそこで雇って一日で仕上げたと思う。(二日間だったかもしれないけど正確には思い出せないし、ゆっくり作れる余裕はなかったはずだよ)

Herr X - アルバムをミックスしている間、僕は'Mr. X'のドイツ語バージョンを作るアイデアが浮かんだんだ。すごく面白そうだったし、12インチ用のカップリング曲としても丁度いいし、それほど時間もかからないからミキシングのスケジュールにも影響がなかったんだ。他の皆も賛成してくれたよ。僕のドイツ語は結構上達していたんだけれど、さすがにすぐに訳す事はできなかったからコニーの奥さんのクリスタに手伝ってもらったんだ。コニーもチェックしてもらって問題なかったから、ある日の午後にコニーから発音の指導を受けながらレコーディングしたんだ。
英語以外で歌った曲はこの曲だけだったけど、ドイツのファンはとても熱心だったからこれで恩返しができたと思っているよ。ミックスは英語版と同じで、ヴォーカルトラックを変えただけなんだ。どちらも注意してよーく聞くと、カメラのシャッターを切る音が入っているよ。なるべく小さくなるようにしたけどね。Herr Xは'Vienna'の12インチシングルのB面に収録されたんだ。


1981年5月26日 - シングル 'All Stood Still'リリース

この曲の7インチ盤はアルバム・バージョンを編集したものでリミックスではないんだ。僕達は曲を作る時は特に長さを気にせず自然に収まるままにしていたけど、それではラジオ用には不向きだったんだ。レコーディングした曲がシングルになる事が決まって、もしその曲が長かったら編集しようって事になったんだ。僕達がどこを削るかを決められる限り、これは大した問題ではなかったよ。
編集する時は全体の時間を短くするためで、曲を別のものにするためではなかったよ。ほとんどの人はシングルとアルバム・バージョンが同じ必要はないって気付いているってわかっていたからね。
一度誰かが'All Stood Still'のビデオクリップを見た事があるって教えてくれたんだ。この曲はビデオを作らなかったから僕は怪しいって思ったよ。もし彼が本当に見たなら、きっとそれは熱心な海外のレコード会社が色々な映像を編集して僕達の曲を挿入したんだと思う。僕達は作らなかったからね。

7インチのB面は'Alles Klar'だった。タイトルはドイツで長い間を過ごし、言葉と格闘した事から影響を受けているんだ。'Klar'と'Alles Klar'は、「はい、わかりました」「了解しました」っていう意味なんだけど、この言葉はすぐに使えて何でもフィットする片言の返事っていうジョークでつけたんだ。
曲の冒頭で聞こえる息を吐く音は最後まで続いているんだ。今では5,6回録音したらそれをサンプリングして必要なだけループさせればいいんだけど、当時僕はマイクの前に立って5分間息を吐きつづけて、最後には過呼吸で苦しくなっちゃったんだよ。

'All Stood Still'で初めて12インチバージョンを作ったんだ。その後の12バージョンという形が進化していった様子と比べるとすごく手馴れているように思えるものだけど、これはまだまだ初期の段階だってよ。
12インチのB面には'Keep Torque-ing'って印刷されているね。これは後にオリジナルで正確な'Keep Talking'と修正されたよ。これはミスプリントっていうわけじゃなくってバンドの皆でちょっとふざけて勢いでつけちゃったのと、あるいはテープに書いてあった手書きの曲名を読み違えたのと、多分この両方だったと思うんだ。本当にレコードにプリントするつもりじゃなかったんだ。
'Keep Talking'はデモというわけじゃないんだ。練習スタジオでジャムセッションをしている時に僕がウォークマン・プロで録音したものなんだ。自発的にやった事なんだけど、後から聞いてどうやって出したのか自分達でもわからない音がそこには録音されていたんだ。特に誰かが喋っているようなあいまいな感じのシンセ・ノイズがね。後で簡潔に曲の要素を判読しようとして書き出してみたんだ。僕達はそれが「捉えられた瞬間」の魅力だという事に気づいて、欠点もそのまま隠さずに、あるがままの姿で僕達がどうやって曲を作ったかがわかるものを収録したらすごくいいなって思ったんだ。
僕達はカセットの音源をマルチトラック。テープに移して出来る限り音質を整えていったんだ。それがあの曲さ。

タイトルは僕達の誰かがロンドンのクリサリスのスタッフと電話で話していた時に出来たんだ。クリサリス側は曲名がどんなものになるのか執拗に聞いてきたんだ。でも僕達はまだ全然決めていなかったんだ。僕達は電話口のその忙しそうなスタッフをごまかしている一方で、そいつに向かってゼスチャーで
「あー、ずっと喋っていろよ(... just keep talking)」ってやっていたんだ。
その時ミッジかクリス(どっちだったか思い出せない)がこう言ったんだ。
「それだ、'Keep Talking'、それがタイトルだよ!」
前述した喋っているようなシンセ・ノイズにも完璧にフィットするから僕達はこの曲名にはすごく満足だったよ。意外な発見をする能力のいい例だね。

12インチシングルの到来は偶然にも僕達のB面に関する姿勢と一致していたんだ。
僕達はミュージシャンになるずっと前から音楽ファンだったし、好きなシングル盤のB面の楽しくてしまい込んである宝石のような思い出もあるんだ。
アルバムには収録されず、時にはA面の曲よりもかっこいいようなすばらしい曲があるものだからね。例えその曲が「商業的」じゃなくてもね。だから僕達は自分達でそういうレコードを作り続けていたんだよ。いわゆる「捨て曲」を入れるんじゃなくて、B面にはすごい伝統 ― 境界がなく、自分達がやりたい事は何でもできる状況 ― があると思うんだ。アルバムにはあわないかもしれないような妙な事ができる機会を与えてくれていると思うんだよ。

当初、B面用の曲やアルバム用以外の曲を作るためにスタジオに入る時はいつもそれまで作っていた曲の断片から始めていたんだけど、仕上がった事はなかったんだ。だからこれが僕達のスタートポイントだったね。まだ僕達はこの時確信がなかったかもしれないし曲の核心を捉えていなかったのかもしれない。
曲の全ての要素が揃っている時、パズルを解く鍵になるような1フレーズを見つける事ができればもう曲は出来たようなものさ。でもそのフレーズは素晴らしいけれど、それを展開させるきっかけが見つからない時があるんだ。もしそれがわかれば全てが収まり曲は形になってくるだろう。時々色々なアイデアを試してみて、曲に何の作用も及ぼさない時はまた別の曲に取りかかるけど、でも心の中ではやりかけのその曲がよろよろとしているんだよね。そういう曲がB面の候補として理想的だね。

創造の過程を型にはめる事はできないよ。アルバムに収録できるくらい良い出来の曲だって、それがシングルのA面曲にそのままなってしまうなんて事がなかったからね。曲が多くあるのとどっちがいいんだろうか。でも結局僕達はB面用の曲のないまままた出発点に戻っていったんだ。こんな状況を繰り返していって、僕達は良いB面曲を作るには何も準備しないでスタジオに入って、その場で曲を作るのが一番だって分かったんだ。リスクはあるけど、このほうが魅力的な曲ができるんだ。これは後々の事や自分達のキャリアの重圧なしに音楽的にリラックスできる理想的な方法だったし、まだまだチャレンジもしたかったんだ。僕達はその後様々な手法を曲に取り入れてアルバムを作っていったから、状況はどんどん良くなっていったんだ。僕達はそれから'Rage In Eden'のレコーディングでこの哲学を究める事になったんだ。

(残念ながらウォーレンはこの時点でインタヴューをやめてしまった。ただ彼は続けてくれる事を約束してくれたので、いつの日か再開してくれる時が来るだろう。私は待っている…)


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Thanks to Warren Cann, Jonas Wåstad & S.Y.
インタヴュー日本語訳版の掲載を許可していただいたウォーレン・カン氏、ヨナス・ワースタッド氏と、翻訳を担当してくださったS.Y.さんに感謝いたします。(邪外)


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