ウルトラヴォックス ― ザ・ストーリー
ウォーレン・カン インタヴュー 聞き手:ヨナス・ワースタッド
ULTRAVOX - THE STORY
WARREN CANN INTERVIEWED BY JONAS WÅRSTAD
The copyright of this interview is owned
by Warren Cann and Jonas Wårstad.
Copyright (c) 1998-11-14 Warren Cann and
Jonas Wårstad.
The original interview in English
http://www.discog.info/ultravox-interview.html
Translated by S.Y.
(これは数か月の間に電子メールによってウォーレン・カン氏と私が行なった一連のインタヴューの結果です。質問事項は割愛しました。)
Part1
1974年 - TIGER LILY
僕はメロディメーカーのドラマー募集の告知に応募して、いい感触の返事をもらったんだ。僕は以前こういうメンバー募集ではいい経験がなかったから、控えめな態度でいるのはだめだと決めていたんだ。数週間後、忘れた頃にデニス・リー(後のジョン・フォックス)から電話があり、彼は僕に会って僕の前で彼の曲をアコースティックギターで歌ってくれたんだ。僕は彼の曲と歌詞が気に入ったから、他のメンバーにも会いたいと思ったんだ。
1974年5月、僕が加入して僕達はバンドになった。それまではデニス、スティーヴィー・シェアーズ、クリス・アレン(後のクリス・クロス)の3人だけでライヴの経験はなく、王立の美術学校のホールでそこに置いてある機材を使って練習していたんだ。僕はそこで彼らに会い、ドラムスを組み立ててしばらくプレイしたんだ。僕はジャムセッションするより、彼らの曲を一緒に練習しようって提案したら彼らも喜んだんだ。デニスの熱意とクリスのベースに僕は興味を持ち、しばらくこのバンドでどうなるかやってみようって思ったんだ。リハーサルの数週間後、僕はこのバンドに追及する価値のある何かがあるって思ったんだよ。
自分達の熱意以外何の資産もない駆け出しのバンドとして、僕達にはとてもラッキーな事があったんだ。僕達には練習する場所が便利な所にあって、夜には僕達専用で使えたんだ、しかもタダで!デニスの友達のスコットランド人、ロニーが店舗改装用のマネキン人形を扱っていて、夜はそこをリハーサルに使っていいよって言ってくれたんだ。そこは「モデルノ」って呼ばれていて、キングスクロス駅のそばのビジネス街にあったんだ。だから気にする事なく騒音を立てられたし、駅から歩いて5分で行けたんだよ。でも終電の時間になるとリハーサルを止めなくちゃならなかった。誰も車なんて買えなかったし、終電を逃したら朝までプレイし続けなくちゃならなかったからね。
すごい眺めだったね。裸のマネキンの真中に僕達がいたんだ。かつらをかぶったもの、丸坊主のもの、立っているもの、そして多くは反れた薪のように立てかけてある。当時僕達がそこで撮った写真はなかなかすごいよ。
僕達はロニーにいつも言ってたんだ。バンドに何か前進があった時、最初に契約を交わした時には何か恩返しするよってね。あそこで週に3、4、5回と練習したり曲を作れる事は僕達にとってとても貴重な事だったからね。あそこが僕達の原点だし、とても感謝したよ。
僕達の本当に最初のライヴはランカスター州コーレイだった。履歴ではロンドンのマーキーで74年8月にヘヴィメタルキッズの前座って事になってるけど、その前のウォームアップが必要だったんだ。
デニスの地元のコネでコーレイの青年館で演奏したんだ。マーキーの一週間前で皆でそこまで車で向かったんだ。
2回目の「正式な」ライヴはそのすぐ後だった。再びマーキーで、クリス・スペディングのバンド“シャークス”の前座だった。
この数回のライヴのメンバーは4人だったんだ。ビリー・カーリーが加入したのはその数ヶ月後なんだ。ライヴの後、僕達はギター/ベース/ドラムス/ヴォーカルという編成ではより理想的な音は出せないって感じていた所でビリーと知り合ったんだ。最初彼はヴァイオリンを数曲弾いただけだったんだ。彼がピアノも弾けるなんて知らなかったからね。「え、弾けるの?何で言わないのさ!」っていう感じだったよ。その後僕達は'Ain't
Misbehavin'みたいな仕事をしてビリーのためにCrummarのエレクトリック・ピアノを買ったんだ。そいつはその時は使えたんだけど、今思えばひどい代物だったよ。アンプはスティーヴィーのSelmerのギターアンプしかなかったから何でもそこに繋いでたんだ。
TIGER LILY唯一のシングル'Ain't Misbehavin'
リリースの正確な日付は忘れたけど、75年3月1日付のメロディメーカーに記事が出てる。ライターはカール・ダラスという人で、映画とデニスについて書いてあるね。2週間後のシングルのレヴューは、今週の'HITS','MISS(いい曲ダメな曲)のMISSの一つとして出てるね。あまりこういうレヴューはなかったんだけど。これが僕達の最初のレヴューだった。ちょっとさわりを書いてみようか。
TIGER LILY : Ain't Misbehavin' (Gull)
「進行するにつれ(トラッド・ジャズ・バンドの)Temperence
Sevenの曲のようにに展開するナンバー。ファッツ・ウォーラーの昔の曲を丁寧にカバーしているが、そんな子供っぽい姿勢はこの曲にはあまりふさわしくない。でもこれはとても面白い曲。歌が進行するとヴァイオリンや多くの素晴らしいアプローチが加わり面白くなる。映画との関係で、この曲はもしかしたらチャンスがあるかもしれない。」
僕の友達のジョン・マーシャルが一時的に僕達のマネージャーをやってくれたんだ。彼は僕達の信じるものは何でも説明できる当時唯一の人で、彼が出来る事は喜んでやってもらったよ。彼のお陰で僕達は映画のサウンドトラックに
一曲入れてもらえる事になったんだ。彼によると、映画は「ブルースの偉人と古典ポルノ」についてだそうだ。面白そうだって思ったよ。僕達はその映画がつまらないものだったら断るつもりだった。
驚いたけどファッツ・ウォーラーのカヴァーをやると聞いて、自分達の曲を使わなくていいからまだいいかって思ったんだ。そしてB面の曲にもスタジオ代を払ってくれるという。単発だけどレコードがリリースされる。そして一番良かったのはすでに現金を支払ってもらっていた事だったんだ。だから僕達は自分達の曲を録音する事にしたんだ。ほんの数百ポンドだったけど、そのお金で何をすべきかはわかっていたよ。ビリーのエレクトリック・ピアノを買ったんだ。これで彼がヴァイオリンを弾かない時にステージで立ち尽くさなくて済んだんだ。
僕達はモデルノでカヴァー曲をアレンジした。納得できるアレンジが出来るまで時間は掛からなかった。それから次にB面の曲'Monkey
Jive'を仕上げたんだ。僕達は自分達の曲の仕上がりを予想して興奮したよ。
録音は有名なオリンピック・スタジオだったと思う。中に入ると僕は偉大な曲が録音された格式高いホールを歩いているようだったのを覚えているよ。
僕はその映画を見ていないから、僕達の曲がどの場面でどのように使われたか知らないし、使われたかどうかもわからないんだ。ジョージ・メリーも同時に同じ曲を録音していて、僕はそっちが使われたんじゃないかって疑ってるんだ。お金を払ったのに僕達の曲を使わないなんて驚きだったね。
1976年10月- The Wild, the Beautiful and the
Damned
そのアルバムは「フロントランナーズ」というシリーズの一枚で、"Rock
& Reggae & Derek & Clive"というタイトルだった。76年10月2日のメロディメーカーにその広告が出てるんだけど、このレコードはアイランドレコードのアーティストの曲が収録されているオムニバス盤で、メロディメーカーの付録として65ペンスで発売されていたんだ。
他のアーティストは、ロバート・パーマー、バニー・ウェイラー、マックス・ロメオ、ジ・アプセッターズ、バーニング・スピアー、ジャスティン・ハインズ&ザ・ドミノス、ピーター・クック&ダドリー・ムーア、サンディ・デニー、そしてエディ&ザ・ホットロッズだった。
ジャケットには僕達やアルバムの写真はなく大きなクエスチョンマークがあったんだ。僕達はまだバンド名をちゃんと決めてなかったし、どんな名前がいいかわからずうろたえていたんだ。僕達は結成以来色々な名前を使っていて、タイガーリリィはすでに変えていたんだ。それからは'Zips',
'Fire of London', 'London Soundtrack'と名乗ったよ。何週間かは'The
Damned'だったんだ!他のあるバンドがすでに使っていて僕達が打ち負かされるまでね。
僕達が提示したバンド名が今後ずっと僕達を示す事はわかっていたから、納得できる名前が欲しかったんだ。一方アイランドはレコードを出さなきゃならなかったし僕達を待ちきれなかったから、"?"を使って'The
Wild, the Beautiful, and the Damned'を収録したんだ。僕はこのレコードをイギリスのどこかで手に入れたんだ。広告の文章を書いてみよう。
「"Rock & Roll & Derek &
Clive"はメロディメーカーのフロントランナーシリーズの新作です。この先例のない3枚のコレクターズアイテムは、読者の皆様に沢山のポップアルバムを知らしめるでしょう。これはレコードショップでは手に入りません。アイランドレコードは有名なポップスターをそろえてこのユニークなアルバムを製作しました。
(僕達についての記述)
バンド名:不明
"The Wild, the Beautiful, and the Damned"
このバンド初の作品。彼らはイギリスの新バンドで、この曲を含むニューアルバムは、現在ブライアン・イーノプロデュースで製作中。バンド名はまだ決まっていない。」
見て、まただよ。これが最初だったのか。本当によく見てよ。1stは僕達が自分達でプロデュースしたんだよ!スティーヴ・リリーホワイトとイーノはプロデューサー補としてクレジットしてって言ったのに、アイランドは常にブライアン・イーノプロデュースって書くんだ。これは全然正確じゃないから僕はすごく頭に来たんだ。レコード会社はレコードにイーノの名前があったから、それを押し出してセールスに繋げようとしてたんだ。
"The Wild,~は僕達の極初期の作品さ。僕達はライヴをあまりやっていなかった。
自分達のやり方でできるまでやりたくなかったし、僕達が嫌いな“パブロック”を追いかけるような事はしないって決めていたんだ。その後僕達はわずかに姿勢を変えて何回かパブでも演奏したよ。人の前で演奏してみてどうなるかが知りたかったんだ。僕達はモデルノで曲を作りまくったよ。作曲してそれを完璧に仕上げ、それから次の曲に取り掛かったんだ。その後又前の曲に戻って曲を解剖し、よりよく仕上げて新しい曲に進んでそれを反映させ、古い殻を捨てていったんだ。あのソングライティングの技巧を経験できた事は素晴らしい体験だったな。
"The Wild,~は大まかな原曲を1,2週間精力的に練り上げていったんだけど、一度曲が固まったらもうそこで変化はなかったよ。この曲は当時たくさんあった曲の中でも僕達の代表曲だったし、もしアルバムを作るなら、この曲は外せないって思ってたんだ。
ブライアン・イーノはとても興味深い男で、すでに地位を築いていた。彼と仕事をした経験は学ぶ事があったし、とても楽しかった。後悔なんかしてないし、他のみんなもそうだったと思うよ。でもそれは決して僕達が思い描いていた事ではなかったんだ。僕達はロキシーミュージックのブライアンという印象があったし、実際彼は技術的なタイプで、レコーディングならではのトリックや技術的領域に関する事に長けていると思っていんだ。僕達はスタジオ環境の境界線を推し進める方法をすごく知りたかったし、彼はただ当時広く普及した、従来のギター/ピアノ/ベース/ドラムスというアプローチをどうやって打開するか教えてくれるだけの人って思っていたんだ。僕達は彼の知識が欲しかったんだ。
でも一緒にやってみて、あくまでも当時だけど、彼は専門的技術については殆ど知らなかったんだ。初めて一緒にスタジオに入った時の事さ。僕達はすでにその日までに曲の大部分を録音し終えていたんだ。僕は彼が持ってきたミニモーグを見ていたんだ。僕が初めてミニモーグに触ったのはこの時さ。彼は音階を書いたテープを鍵盤に貼って、更にツマミの並んだパネルに小さな写真を貼り付けていたんだ。僕はかわいい羊の写真を指して聞いたんだ。
「これは何?」
「ああ、このツマミ何だかわからないけど、回すとウィーンって音がするんだよ。羊みたいだからこの写真貼ってるんだ。」
(羊→ウール→ウィーン…、わかる?)
全く不意を食らったよ。何て言っていいかわからなかった。僕はただ頷いてこう言ったんだ。「う〜ん、グッドアイデアだね!」その瞬間から、彼は僕達が思っていたようなスタジオの魔術師ではないんじゃないかって疑い始めたんだ。
イーノはコンセプトを提示する人間で、アイデアマンだったんだ。彼は音が最終的にどうなるかという事に口は出さず、その過程だけに興味があったんだ。もしそれがプライベートな作品で、公にリリースされる物でなければ、プロセスを学ぶ事は素晴らしいし楽しい事だけどね。
目的に囚われずその経過を重視する事を認める一方、僕達の場合はもっと実利を伴うものだった。人々が聞いて楽しむ為の最終的な結果がとても重要だったんだ。録音の過程においてそのような変わった事をするのはとってもクールだとは思うけど、でもまだやるべき作業も残っていたんだ。もし僕達が自分達の出来る事を出し切れていなかったら二枚目はないからね。
僕達とイーノが創造的な時間を過ごした間はテープは回っていなかった。僕達はコントロールルームに座って音楽や美術について話したりしてたんだ。僕達はお互い波長があう仲だったと思う。彼は理路整然とした中にアーティストが関わらなければならない感情の混乱があった。
彼は、僕達がミックスダウンを始めようとしている頃でもまだ何か新しいものを足そうと思っていたようだった。僕達は彼の意見を聞くのは好きだったし、それは全面的にとても良いアイデアだった。彼は3,4曲関わったんだけど、僕達はそのミックスは使わなかった。(僕達はその事については言及しない方がいいって思ったんだ。)
公平に考えて、イーノの名前は少なからず僕達のファーストアルバムに注目を与えてくれたと思う。でもそれは僕達の意図する事ではなかったんだ。
頭に来たのはレコード評で、特定の曲について「この曲はイーノの手によって云々…。」とか書いてあったけど、その曲にイーノは全く参加してなかったんだ。怠けた音楽評再び、って感じさ。
‘77年2月4日- Ultravox!初のシングル’ Dangerous
rhythm / My sex’
‘77年2月26日付の'Sounds'誌のレヴューによると…
「デビューシングルで、今週のイーノのプロデュース作品。彼らは初期のロキシーミュージックに近いようだが、おやまあ、何とよく出来たコピー品だろう!そして若い彼らは最近のロキシーにない派手さがある。豊かなベース、正確でリンゴ・スター的なドラムス、シンセサイザーが流れ、イーノの手で最高のデビューシングルに仕上げられている。」
‘77年3月12日付'Record Mirror'はというと…
「そんなものがあるとすれば、コスミック・レゲエといった所なのか。
重たいリード・ベースと氷のように冷たいヴォーカル。変わっているけれど美しい曲。★★★★(四つ星)」
NMEになると…
「彼らの最も印象的な曲。レゲエスタイルで抽象的、催眠的でシンプル。
ヴォーカルが意識に訴える。」
この頃はまだ彼らは僕達の事が嫌いじゃなかったみたいだね。その後僕達が(プレスに対して)言い続けた事は何だったんだろう?
Dangerous rhythmは僕も好きな曲で、ライヴでやっても楽しかったよ。この曲はアイランドの注目を引いたデモ・テープにもあった曲さ。そのデモはスティーヴ・リリーホワイトと、マーブル・アーチを下った所にあった旧フォノグラム・スタジオで録音したんだ。スティーヴはそこで働いていて、Status
Quo とRolf Harrisのエンジニアをやる間の日に録ったんだ。
僕は親しい友達からスティーヴを紹介されていて会った事があったんだ。彼は15歳位に見えたよ!
彼は週末には僕達を誘ってスタジオを「拝借」し、僕達のやりたい曲は何でも録音させてくれたんだ。その経験で僕達はレコーディングの過程についてとても多くの事を学んだよ。スタジオには素晴らしい機材が溢れていて、大きなダイアルやメーターのついた古いアナログ機材があり、まるですごく高いビンテージ・カーの変速機に見えたよ。リバーブはデジタルのものではなく、建物の奥に隠された部屋にある大きな鉄と「金」の板によって作り出されていた。それは今まで、そして今でも聞いた中で最もなめらかで最高のリバーブだったよ。
僕達は色々と実験をしてそのリバーブルームを使いこなす方法を学んだんだ。テープレコーダーはコントロールルームと隣接した部屋にあり、当時のメインのミキシング・コンソールは、24トラックのレコーダーを操作するリモコンがなかったんだ。
つまり、誰かがレコーダーの横にいて、「スタート!」「ストップ!」
「早送り!」「巻き戻し!」っていう指示を聞いて手動で操作しなくちゃならなかったんだよ。僕達はよく「テープオペレーター」の役をやったものさ。
フォノグラム・スタジオはとてもいい雰囲気だから、僕達は二枚目の'Ha!
Ha! Ha!'を作る時もそこでやる事にしていたんだ。僕らはその頃パンク的な姿勢だったし、バンドメンバーとスティーヴだけでレコーディングする事を切望していたんだ。ちゃんとお金を払うクライアントとしてあそこに戻る事にはとても満足だった。もうお金の心配はご免だからね。
ある日、僕がスタジオに入っていくと、50〜60年代に活躍した女優のFenella
Fieldingが階段を下りて来たんだ。彼女はスタジオの上のどこかにあるペントハウスに住んでいたんだよ。彼女は黒くて長いプラスチックコートと大きな帽子を被っていて、非常に魅惑的に見えた。僕は立ち止まって彼女のために門を開けてあげたんだ。彼女は独特なハスキーヴォイスで、「ありがと、ぼくちゃん」ていったんだ。もし車を持っていたら、どこでも彼女の行きたい所へ連れていったよ。
ファーストアルバムは、当時ロンドンに住んでいた僕達の環境およびライフスタイルが主題だった。Wide
Boys, Sat'day Night, TWTB&TD, I Want
To Be a Machineなんかは特にね。
1977年2月 25日- Ultravox! 初のアルバム 'ULTRAVOX'
アルバムに入っているSat'day Night in the
City of the Deadは二つ目のバージョンなんだ。最初のバージョンは40秒位短い以外は本質的には同じなんだ。僕達はこの曲をシングルにしたかったんだけど、レコード会社は、2分10秒程度の長さだとシングルにするには短すぎって言われたんだよ。ラジオのDJの選曲の妨げになるっていうんだ(3分20秒位が平均値のようだった)。セットリストの時間にあわないって事だね。それが本当だったかどうかはわからない。(誰がそんな事言ったの?当時ラジオでかけづらい曲なんていっぱいあったのに)
でも変に編集するよりも、僕達はAメロとサビを足してもう一度レコーディングした方がいいと思ったんだ。多分それで20〜30秒長くなったと思うよ。
'Lonely Hunter', 'Life at Rainbow's End',
最も初期の頃の一曲'I want To Be a Machine'、そして
'Dangerous Rhythm'は、僕達がアイランドと契約するずっと前からあって、ライヴでも演奏してきた曲さ。
実際これらの曲を僕達はアイランド・レコードの社屋(あそこは会議室だったに違いない)で彼らの為だけに演奏して、それが契約の為に役立ったんだ。彼らは僕達が渡したデモ・テープを気に入ったんだけど、ライヴを見たいって言ってきたんだ。僕達はギグの予定がないって言ったら、「OK,ここに機材を持ってきて演奏してよ。」だってさ。そういった類の事はその後は起こらなかったけどね。
'Slipaway'は'Wide Boys' や "Sat'day
Night'と同じ位比較的新しい曲だったね。
契約する頃に出来たか、その頃仕上げていた最中だったと思うよ。
僕達はハマースミスにあるアイランドの地下スタジオで、契約書を見る前に録音を始めたんだ。そういえば一日はセッション中に契約の事で上の階に行ったりして、結局その日のセッションは中断されたなあ。'My
Sex'はこの時に出来た曲だよ。
そのスタジオで僕達は昼から真夜中まで録音し、夜中から昼まではローリングストーンズがライブアルバム製作に使っていた。ある日僕達がスタジオに入ると、キース・リチャーズがコントロールルームの椅子に座って寝ていたんだ。
僕達は彼を起こそうとしたけど、全然起きなかった。どうしたらいいかわからなかったよ。僕達は作業したかったし、椅子を蹴って”起きろ!”なんて叫びたくなかったから。
仕方なく僕達は彼を寝かせたまま作業を始めたよ。するとテープが回るにつれてキースが足でリズムを取っていたんだ。”すごい、キースが僕のスネアにあわせて足動かしてる!”30分くらいして彼は突然目覚めて直立し、辺りを見回して言ったよ。「あ、ごめん」そしてジャックダニエルズのボトルを持って出て行ったさ。
僕達はこの時、アルバムには収録されなかった曲を録音していたんだ。'City
Doesn't Care' と 'Car Crash Flashback'の2曲さ。この2曲は新曲だったんだけど、アルバムに入れるには適さないんじゃないかって思いはじめて結局外してしまったんだ。ところでバンドの歴史を通じて僕達はアルバムに必要な数以上の曲を作る習慣がなかったから、こういった事はあまりなかったんだ。僕達は満足するまで曲を作り込んで、リリースできるようにしたか没にしたんだよ。
もうひとつ、ファーストアルバムの頃の、バンド名の事で日の目を見なかった興味深い話があるんだ。アイランドのオムニバス盤で僕達のバンド名が「?」になっていたのは、僕達が締め切りまでに正式な名前を決めていなかったからなんだ。僕達は、「これはあれで、こっちはだめで…」といった感じで良いバンド名を探していたんだ。僕達が選んだ名前はとてもいいものだった事は明らかだし、僕個人もすごく好きな名前さ。この後知られざる事件が起きたんだけどね。バンド名を決めた後もアイランドから細かい事を色々聞かれていたんだ。まだ僕達が地下のスタジオでセッション中なのに上にいたスーツの奴らはレコードスリーブに載せる詳しい内容の事で電話をかけまくってきてたんだ。メンバーの名前の事とかを決めるためにね。
クリスは面白がって”クリス・クロス”と名乗る事にしたんだ。
ビリーとスティーヴィーは本名のまま。僕はセッション中もどうするか決めかねていたんだ。
上の階からアイランドの社員が電話してきてデニスが話しているのを聞いてたんだけど、彼は「まだわかんないけど、僕はジョニー・ヴォックスかジョン・ヴォックスにしようと思う…。」って話してたんだ!
自分の耳を疑ったよ!そしてこう思ったね。
”もし彼がそうしたら僕達全員彼のバックバンドって思われる…”
僕はあせったし、バンド内のプライドや結束が薄い氷の上にあるように思ったよ。(その後氷は割れるんだけど)
僕はちょっと考えて、電話してるデニスを呼んでこう言ったんだ。
「じゃあ僕はウォーレン・ウルトラにするって伝えてよ」
デニスがFoxxを選んだ事がわかったから、僕は本名を名乗る事にしたんだ。もうわかったでしょ?Ha!
Ha! 'Ha! (意図したしゃれなんだ)
1977年5月 28日 - 二枚目のシングル’Young
Savage’
バンドとしてではなく、個人的に’Young Savage’は僕の自伝的な曲だ。僕達が大きな渦巻きの中心ではたした役割だった。レコーディングに関しては反省する点もあるけれど、これは僕のお気に入りの一曲。この曲のスタジオテイクとライヴテイクはどちらも正に僕にぴったりさ。大きな音で聞いて!何度も繰り返してね。
’Young Savage’のレコーディングはあまり覚えていないんだけど、この曲をバンドで演奏するのは楽しかった。この曲は大きなハーレーみたいで、こいつにまたがってスターターをキックして思い切りスロットルを開けるんだ。’Young
Savage’をやった時 ― 特に消防署長がやって来そうなぎゅうぎゅう詰めのマーキーでやった何回かは、人々は熱気でむせ返り、僕は酸素マスクが欲しくなったくらいだった。その時のギグはとても激しく、ステージを降りる時には僕達はへばっていたんだ。楽屋はまるで魚雷を受けた船のボイラー室みたいだった。機材の金属部分は全てくぼんで錆びちゃったんだ。
この頃は、オーディエンスがバンドに向かってつばを吐きかけていた時期でもあり、’Young
Savage’が始まるとその量は更に増えたんだよ。振り返れば狂った事だったけど、このばかげた行為は僕達に対する賞賛を表す事になっていたんだ。
ある時、僕達が演奏中に聴衆の中の若い奴がステージ前まで出てきたんだけど、すごい熱気の中彼は否応なくつばを吐く事をやめていたんだ。でも彼はゆっくりと正確にクリス・クロスを狙っていたんだよ。彼は繰り返しクリスの顔を狙い、次の爆撃の用意をしていたよ。可哀相なクリスはそんな中ベースを弾きコーラスを務めていたんだ。(ロケット技師も歌うときは口を大きく開ける事は認めるだろう…うぅ)奴がそれをやる事は明白だった。僕は演奏を中断できないから前に出られなかったし、奴がどこにいるか正確にはわからなかった。そこで僕はドラムスティックを投げてそのアホの顔にぶつけたんだよ。僕が奴をにらみつけると、奴は茫然として僕を見ていたよ。奴は状況を理解して人ごみの中に消えていったんだ。僕はこの事をすいぶん後になるまで言わなかったと思う。
(Young savage B面のSlip Away live versionについて)
バンド結成時、僕達は虚勢を張ったようなミュージシャンの姿勢と、名うてのバンドが在庫しているような一曲40分もあるような曲にうんざりしていたんだ。僕達は'50s
& '60sポップスのような短い曲を努めて作ったよ。ノリのいい、それでいて継ぎ目のないメロディの曲を追憶をたよりに溜めようとしたんだ。ロイ・オービソンの様にドラマッチックに、ストーンズやヴェルヴェッツのように生々しく攻撃的に。詞はボウイやボランを越えるように。そんな時期を経て僕達は「2分半〜3分で4小節のソロがある(最大でも8小節)曲」を経てより複雑で長い5分程度の曲を作ったんだ。’I
want to be a machine’や’Slip away’そうしてできた最初の中の曲さ。自然と、この時間の一致で他のみんなは短く簡潔なポップソングの良さに気付いたようだった。そして僕達はサビが3回もあるような曲はやらないようになっていったんだ。
南ロンドンにあるレインボーシアターはバンドマンにはあこがれの会場で、有名なバンドが多数出演していたんだ。
アイランド所属のエディ&ザ・ホットロッズの前座で僕達が出演した時、とうとうここまで来たか、って思ったさ。この時はそれまでで最大のコンサートだったよ。どこかの誰かが、その時のライヴを録音するって決めたんだ。
当時ライヴ録音は技術的、経済的にまだ大変な頃で、ストーンズが使ったのと同じシステムを使うって知った時は驚いたさ。録音を誰かに任せた事もなかったしね。
僕達は午後早い時間にレインボーに行って会場の中を熱心に見て回り、興奮を募らせたよ。リハーサル前も活気に満ちていたよ。最高の演奏をしたかった。
録音スタッフがもたもた準備している間に、僕達は楽器のセットを終えた。
僕はレインボーの結構近くに住んでいたから、リハーサルから本番までの時間潰しには困らなかったんだ。だからステージ衣装も持って来ていなかった。
時間はなかなか進まない、進まない…。でもサウンドチェックはまだ。
もうリハーサルなしで本番って事は明白だった。
この時点では一度車で部屋に戻って荷物を取ってくる時間はまだまだあったから、“一時間で戻ってくるよ”と言って部屋に戻ったんだ。
衣装を持って戻る途中、どうなったと思う?
僕のボロい車のガソリンポンプがいかれて立往生しちゃったんだ!
必死に戻ろうと歩きながらヒッチハイクしたんだけど、誰も乗せてくれなかった。タクシーも見つからないし、まずい、まずいよ!
レインボーに戻った時点で、僕はかなり遅刻していて取り乱していた。
僕達は30分前から演奏を始めるはずだったんだけど、僕が急いで舞台裏に駆け込むと、観客がざわざわ騒いでいるのが聞こえたんだ。
他のメンバーはすでにステージのそれぞれの場所にいて、かなりいらついてたよ。僕はドラムキットに駆け上がって行く途中、ジャケットを引っ掛けて破いてしまった。その途端ステージのカーテンが上がり始めたんだ。
観客は足を踏み鳴らし声を上げて準備万端。でも彼らはエディ達を待っていたんだ。前座バンドの宿命ってやつだ。
僕が必死で会場に戻っている間、他のメンバーは心配し、不安になり、怒っていたから一曲目が始まるとバンドは急な坂を下りる列車のように演奏を始め、全員興奮してアドレナリンが溢れているようだったよ。
結局その日は素晴らしいライヴで、それまでで一番いい演奏だった。
録音された内、始めの何曲かはエンジニアがバランスを上手く取れなかったからあまり使えなかったけれど、その日のライブは全て録音されたんだ。
でも僕は一曲目から申し分ない演奏だったと思う。
その後僕達はその最初の何曲かをなんとかして使えるようにしようと悩みながらラフミックスを作ったんだ。
でも結局その日録音した演奏はちゃんとミックスはしなかったと思う。
それでよかったんじゃないかな。
僕は77年2月19日に行ったこの時のミックスのカセットテープを持っているんだけど、曲目は以下の通り。
Life At Rainbows End / Came Back Here To
Meet You / Wide Boys/ Satday Night /
Lonely Hunter / Modern Love / Dangerous Rhythm
/ Slipaway / TV Orphans / The Riff / The
Wild, The Beautiful, & The Damned.
聞いてるとすごく楽しいよ。いつか全曲まとめてリリースされるといいんだけどね。
[Interview Part2]
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